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2016年07月04日

2016年07月03日のみことば
























posted by kuchan7 at 09:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アフリカの若き殉教者の言葉

私は行く。同行者は少なくとも、案内人は信頼できる。

私は誇り高き交わりに加わっている。
さいは投げられた。
もう後へは引けない。
私は一歩踏み出したのだ。
心は決まった。
私はイエス・キリストの弟子になるのだ。
私はもう振り向かない。
力を抜かない。
歩みを遅くしない。
後へ引かない。
じっと立ち止まることもしない。
私の過去はあがなわれた。
私の現在には意味があり、
私の未来は保障されている。
程度の低い妥協的な生き方はもうやめた。
見えるものに頼る生き方、
すべすべのひざ、
色あせた夢、
鎖のついたビジョン、
この世的な話、
安っぽい施し、
ゆがめられたゴール・・・・。
私の目は向くべきところに向いている。
私の足取りは軽い。
ゴールは天国にある。
道は狭く、険しい。
同行者は少なくとも、
案内人は信頼できる。
私の成すべき仕事は明らかである。
私はあきらめない。
黙らない。
力を抜かない。
イエスのために生き続ける。
祈りつくす。
犠牲を払い切るまでは。
私は行かなければならない、
主が来られるまで。
ささげなければならない、
倒れるまで。
伝えなければならない、
すべての人が知るまで。
働かなければならない、
主が私を止められるまで。
そして、主が来られるとき、
私を探しだすのに苦労はしないだろう。
私の旗印は明らかだから。
posted by kuchan7 at 00:06| Comment(0) | 詩の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月03日

「福音は語られているか (金田福一)」より 八(前半部)

八 隠されたる神 (前半部)
 ブランケという神学者の、「ルターにける隠されたる神」という論文は、小さな論文ですが、非常に面白いと思いました。「救者としての神も、隠されたる神であり、啓示は同時に被覆である」と、ブランケは言います。また、「被覆は啓示の仮定であるだけでなく、信仰の仮定である」と言うのです。また、「怒りは、神がみずからを隠すヴェールである」というのです。信じるものを、地獄に落とそうとするかのように、怒りのヴェールをかぶって接近する神に対して、信頼と従順とが要求されるのです。信仰とは、怒りの背後にある愛と真実の神を、信じて疑わないことだと、ルターは言うのです。
 この思想は、困難と苦しみの日々における私に、大きな慰めと励ましを与えるものでありましたが、また同時に、大きな問題の提出でもありました。神が私に、どんなにひどいことをなさろうと、キリスト者としての節操を守って、黙って耐えていくことが、信仰というものなのでしょうか。そこには、神の愛を信じる者の、生き生きとした喜びはなく、ただ、暗い忍従のみがあるのです。そして、どんなにひどいことをされようと「受け取っていくのだ」、「耐えていくのだ」という、悲壮感がつきまとって離れなかったということは、問題であったと思います。そのような悲壮感は、けっきょく、自己追求にすぎなかったと思います。恵みにゆだねた者の、勝利でも、平安でもなかったのです。
 ルターにおける隠されたる神が、私にとって、現実の生活の、どのような状況の下において問題となり、また、克服されていったのでしょうか。昭和二十五年から二十九年にかけて、私の一家は、川の中の中州に建てられた、小屋のような小さな家に住んでおりました。その家は、発狂した少女を隔離するために、建てられた家でありましたが、少女が死んで空いていたので、私たちが買って入ったのです。その家で私は胃を患い、貧困と絶望の底に落ちました。毎日、一家心中を口にする日が続きました。特に、大雨になって増水した場合、逃げ道がなくなり、家が流されるかも分からないと思われました。それは、形容することのできない不安でありました。そういう状況の中で、私はルターを学び、ルターによって救われたのです。(詳しくは私のあかし「生きよ」をご覧下さい)
 隠されたる神を信じるということは、私にとって、いつの間にか暗い予想へと思いを馳せながら、そのことに耐えていこうとすることでありました。「流さないで下さい」と祈りながら、「信じる者は、むしろその信仰の故に流されるであろう」という、自暴自棄的な思いに駆られるのです。祈るということは、確かに、人間の願望のままに、神をねじ伏せることではありますまい。「あなたを信じています」と、どんなにあつかましく申し上げたとしても、そのことが、義にして自由なる神のみ前に、特権として通用することもありますまい。「流さないで下さい」と祈る心の底に、そのような暗い思いが、渦巻いていたのです。そして、そのような神に反抗しないことが、信仰であるというような、悲しい思いに満たされていたのです。しかし、信仰とは、はたしてそういうものなのでしょうか。「隠されたる神」に、どうして耐えることができるのでしょうか。  
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posted by kuchan7 at 23:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする




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