2019年03月02日

たった10秒のエイジングケア!【エレクトーレ 】

洗顔後、たった10秒お肌に馴染ませるだけの簡単ケアでお肌がみるみる甦ります!
芸能人にも愛用者多数!!
ハリ、つや、透明感を実現していただけます。



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エレクトーレ 愛用歷7年
タレント加藤紀子様

トリートメントの第一印象は今までくすんでたのねっていう気がするくらい 肌が違って見えたのが大きな驚きで何これまた使わなきゃって思いました。 エレクトーレの凄いところって四季が変わったり、地域が変わって水が変わっ たり、どこに行っても、これさえ持っていければ大丈夫って思えるところ。 ずっと使い続けたいです!

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【シェリア プレミア エッセンス】毎日とにかく忙しいワーママ向けに













美容成分47種を配合。“ワーママ”の肌悩みに寄り添った

1つで6役(ブースター・化粧水・美容液・乳液・クリーム・パック)

の薬用オールインワン美容液。

さらに、【乾燥・シミ・毛穴】の悩みにに着目して、

【保湿・美白・毛穴目立ち対策】のための美容成分を47種配合。

家事に育児に仕事に忙しいママのお助けアイテムです!


【4つの特徴】

POINT1 1つで6役!オールインワン設計で時短

POINT2 ワーママの「こんなの欲しかった」を反映

POINT3 触れ合うお子様に配慮した処方

POINT4 国内生産で徹底した品質管理



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2019年03月01日

セレブも注目!話題急上昇中のバオバブオイルで新・オイル美容【ジュアシェリール】

驚異の保湿力!新・オイル美容【バオバブオイルピュアナチュラル】










過酷な気候のアフリカサバンナに広く生息し樹齢1000年以上、直径10m


にもなるという世界で最も大きな木の一つバオバブの木。


バオバブの木は、乾燥や激しい温度差など、過酷なサバンナの大地で育つ中


で、自らを守るために、驚くほどたくさんの栄養素を蓄えています。


その実はスーパーフルーツとして欧米などで広く愛用され、注目され始


めたのち、実だけでなく、アフリカの現地の人が太古の昔から使い続け


てきた、種子から搾ったオイルの美肌効果が科学的にも証明されたこと


もあって欧米ではセレブをはじめ、人気が沸騰しました。


欧米ではすでに、様々なスキンケアアイテムとして使用されているのです。



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2019年01月01日

「福音は語られているか (金田福一)」より 八(前半部)

八 隠されたる神 (前半部)
 ブランケという神学者の、「ルターにける隠されたる神」という論文は、小さな論文ですが、非常に面白いと思いました。「救者としての神も、隠されたる神であり、啓示は同時に被覆である」と、ブランケは言います。また、「被覆は啓示の仮定であるだけでなく、信仰の仮定である」と言うのです。また、「怒りは、神がみずからを隠すヴェールである」というのです。信じるものを、地獄に落とそうとするかのように、怒りのヴェールをかぶって接近する神に対して、信頼と従順とが要求されるのです。信仰とは、怒りの背後にある愛と真実の神を、信じて疑わないことだと、ルターは言うのです。
 この思想は、困難と苦しみの日々における私に、大きな慰めと励ましを与えるものでありましたが、また同時に、大きな問題の提出でもありました。神が私に、どんなにひどいことをなさろうと、キリスト者としての節操を守って、黙って耐えていくことが、信仰というものなのでしょうか。そこには、神の愛を信じる者の、生き生きとした喜びはなく、ただ、暗い忍従のみがあるのです。そして、どんなにひどいことをされようと「受け取っていくのだ」、「耐えていくのだ」という、悲壮感がつきまとって離れなかったということは、問題であったと思います。そのような悲壮感は、けっきょく、自己追求にすぎなかったと思います。恵みにゆだねた者の、勝利でも、平安でもなかったのです。
 ルターにおける隠されたる神が、私にとって、現実の生活の、どのような状況の下において問題となり、また、克服されていったのでしょうか。昭和二十五年から二十九年にかけて、私の一家は、川の中の中州に建てられた、小屋のような小さな家に住んでおりました。その家は、発狂した少女を隔離するために、建てられた家でありましたが、少女が死んで空いていたので、私たちが買って入ったのです。その家で私は胃を患い、貧困と絶望の底に落ちました。毎日、一家心中を口にする日が続きました。特に、大雨になって増水した場合、逃げ道がなくなり、家が流されるかも分からないと思われました。それは、形容することのできない不安でありました。そういう状況の中で、私はルターを学び、ルターによって救われたのです。(詳しくは私のあかし「生きよ」をご覧下さい)
 隠されたる神を信じるということは、私にとって、いつの間にか暗い予想へと思いを馳せながら、そのことに耐えていこうとすることでありました。「流さないで下さい」と祈りながら、「信じる者は、むしろその信仰の故に流されるであろう」という、自暴自棄的な思いに駆られるのです。祈るということは、確かに、人間の願望のままに、神をねじ伏せることではありますまい。「あなたを信じています」と、どんなにあつかましく申し上げたとしても、そのことが、義にして自由なる神のみ前に、特権として通用することもありますまい。「流さないで下さい」と祈る心の底に、そのような暗い思いが、渦巻いていたのです。そして、そのような神に反抗しないことが、信仰であるというような、悲しい思いに満たされていたのです。しかし、信仰とは、はたしてそういうものなのでしょうか。「隠されたる神」に、どうして耐えることができるのでしょうか。  
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posted by kuchan7 at 23:24| Comment(0) | キリストと信仰 | 更新情報をチェックする

「福音は語られているか (金田福一)」より 八(後半)

八 隠されたる神 (後半部)
 昭和二十八年のある日、病んでいた私は、少し体ぐあいのいい日に、杖をついて河原に出ました。そして私は、「お前は救われているではないか。キリストのいのちが、お前には流れているではないか」という、静かなる語りかけを聞いたのです。その日から、私と一家八人の家庭と生活は、すべてを神にゆだねた、平安と感謝の生活にと、変えられていきました。それは、言いかえますならば、キリストの臨在と内住の確信が、与えられたということです。私の心の内に住んで下さる、いのちなるキリストは、私の家庭の中にも居て下さるということが、確信されるようになったのです。
 私の病気、失業、貧困という、最悪の状態は、その後も何年も続きました。しかし、キリストが共に居て下さるならば、そういう日々にも、平安と感謝は失われないのだということを、発見させていただいたのです。神の怒りのわざとしか考えられないような、地獄に落とされるかのような、苦しみの日々をも、暗い心で、悲しげに、耐えていくのではありません。そのような日々にも、生ける主は、共に居て下さるのです。信じる者にとって、主が共に居て下さらないような瞬間はありえないということです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ二三・四三)と、主は、十字架上の犯罪人に言われましたが、そのみ言葉は、また私たちにも、言って下さったみ言葉であったのです。
 ルターは、隠されたる神に耐えました。しかも、生き生きとした感謝と、充実した生命感をもって、隠されたる神に耐え、そして、信じたのです。どうして彼は、隠されたる神を信じ、また、耐ええたのでしょうか。それは、いのちなるキリストの内住、生けるキリストの臨在の確信を、持っていたからだと思います。私もまた、そのことを、生活体験の中で、発見させていただきました。もしそうでないならば、人間というものは、決して、悲壮感を克服できるものではないのです。生けるキリストにゆだねきった、平安なる日々には、将来に対する暗い予感さえも、ゆだねてしまうことができ、忘れてしまうことができるのです。ゆだねるということは、暗い予想や想像を、決して心に持たないで、一瞬一瞬を、ただ主におまかせして、賛美感謝していけばいいのだということを、教えられたのです。
posted by kuchan7 at 23:20| Comment(0) | キリストと信仰 | 更新情報をチェックする

マタイ 27:1~10 売られた主イエス


 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って
首を吊った。祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのは
よくない。血の代価だから。」と言った。(27:5~6)
 私の代わりに罰を受け、その罪を許すために十字架に掛けられた。手と足
に打たれた5寸釘は、彼の体重によって、その肉を引き裂いた。
あなたの信仰、あなたの真実は、この苦しみ、死の刑罰を受ける覚悟が
あるか?あなたはなめている、神を、主イエスの血潮を。「我、たえて汝らを
知らず。」最後の審判の日、偽善者に対して下される神の言葉。
 そして、永遠の燃える炉の火に投げ込まれるか?口先で主イエスのみことば
に従ったふりをするか。福音を伝え、実を結んで、喜びと感謝の果実をその手に
受け取るのか。それは、クリスチャンである、あなた次第です。
 「そのとき、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した。」(27:9)
イエス様のみ足に沿って歩くことを覚えなさい。」(牧師のことば)

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マタイ20:29~34 こころの盲を癒される方


 主は、立ち止まって2人の盲いを憐れみ、彼らの目に触られた。
するとすぐさま、彼らは見えるようになった。
私たち、いや私も盲いであって、どうか、主イエスに頼えみ、
願って目を開いて頂けるようにして下さい。主イエスの業と力は、
本当に本当のことでした。それは今も変わりありません。
 主イエスは、福音を伝えなさいと命じられました。

私たちは、その福音を伝え、そのことによって人々を救いに導き、

そして、わたしたち自身が大きな恵みを手にすることができる。
このことは、真理であって、奥義です。
 私たち(私)はすでに、キリストを信じることによって、救われ、
新しい命を与えられましたが、更に大きな輝きを得ることができる
ということです。私の魂は、それを真理であると感じています。
 科学は真理をつかみ取ることはできないと思います。
どこまで自然の摂理を解き明かしていこうと、
その奥に立ちはだかる壁を打ち破ることはできないでしょう。
主イエスの真理は、すべてを凌駕するということを、
いずれ、すべての人が知ることになると思います。

posted by kuchan7 at 22:42| Comment(0) | キリストと信仰 | 更新情報をチェックする

マタイ 27:51~61 御主の贖い

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(27:51)
主イエスが息を引き取られた時、天と地は揺れ動き裂け、驚愕の姿をあらわした。
夕方になって、イエスの弟子ヨセフが、イエスのからだの下げ渡しを許され、岩を掘って造られた墓にイエスのからだを納めた。そして、大きな石を墓の入口にころがしかけて帰った。
祭司長、パリサイ人たちは、イエスが3月の後よみがえると言っていたので、墓から弟子たちがその遺体を盗み出して、イエスがよみがえったと言ってまわるのではないかと勘ぐり、番兵たちに墓の番をしてもらうよう、ピラトに進言した。そこで、番兵たちは行って石に封印をし、墓の番をした。
イエスの復活!
「多くの聖徒がイエスの復活と共によみがえったように、あなたも、墓から出て聖都にはいり、多くの人の前にその姿を現すこともできますよ!」・・と牧師。
聖書に書かれているように実行してみたら、その多くの望みはきっとかないます、と牧師は続ける。
神様は何でもなさる方、信じて神様一番の生活を!聖書に従った生き方をしなさい。
私は・・あなたももちろん、本来地獄へ行くべき者。
クリスチャンになったから清くなる・・・そんなふうに思ったら大間違い。
誰のおかげで救われたのか良く考えてごらんなさい。
・・・主イエス様、あなたの十字架に感謝します。・・・アーメン。
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マタイ 25章から(2014.11.23)


 難しいことはなにもないと牧師は言います。
十字架の救いに対して、感謝と感動を持っているか。
(十字架の救いとは、イエスキリストが私たちの罪の救いの
ために、十字架に掛かってくれたこと。)
私のような、ばかで性悪な者を、本気で愛してくれているのが
分かるから、嬉しくてしょうがないと続けます。
「すると、王は彼らに答えて言います。
「まことにおまえたちに告げます。おまえたちが、
この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、
わたしにしなかったのです。」」(マタイ25:45)
救えるのに救わないこと。簡単なことを怠って、救いの手を
控えていること、
最も小さい者にしないことは、主イエスにしないことと
同じだと言っています。
そして、この罪は永遠の刑罰につながることだというのです。
価値のあることをしましょう。価値のないことにいつまでも
捉われていないで、本当の価値を見つけて下さい。
私に本当の価値が見つけられるのだろうか。
このことは、いわば最終ステップだと考えている。
その前に大切なこと、それは、
お従いする者になることだと牧師は教える。
お従いするとは、聖書のおしえに従って生きることである。
このこともまあ、ちょっとやそっとでできることではない。
そう考えると、永遠の命を頂くということは、第一ステップで
行ったり来たりしている身として、
ゴールをめざすためには、大いなる意味を持つという他はない。
先が楽しみということだ。

posted by kuchan7 at 21:13| Comment(0) | キリストと信仰 | 更新情報をチェックする

自分の立ち位置(キリスト教へ)


 信仰者として認めてもらえるならば、その必然性が
確かにありました。遊び呆けていた学生時代に、
接触のあった創価学会という世界で、5年ほど、
その教義と友達と、勤行の力や、矛盾を経験し、
最終的に結婚を機に、いや結婚のために、
学会との繋がりを断ったわけですが。
 それから、結婚と離婚、離婚調停、母の死。
そして、キリスト教に求めた救いです。
今の自分にとっての義務は、聖書から読み取れる
ように、キリストの福音を述べ伝えなさいという
命令です。これが縛りでもあり、人々を救う手段でも
あり、自分にとっての喜びにも結び付いていると
思います。
 ただし、自分の生き様は、矛盾と偽善に満ちている
ことは、明白な限りです。

posted by kuchan7 at 12:07| Comment(0) | キリストと信仰 | 更新情報をチェックする